宗教とバチ

      2016/04/27

仏罰という言葉があり諸宗解釈がありますが、仏の真理に背いたために自然に被るものとされ、本来、仏が逆らうものにバチを与えるものではないものです。

不動明王

「粗末にするとバチがあたるよ」
昔の老人は、よくそのように言っていたのを思い出します。

つまり、粗末にするということは雑に扱うということになりますが、「人や物のいのちを大切に扱いなさい」という戒めとして「バチが当たる」という言葉を用いられていたように思います。また「人やもののいのちを大切にできないことの悲しみ」を伝えるようなことを通して慈悲心を喚起させていました。

ですので、昔の老人が語る「粗末にするとバチがあたるよ」という言葉からは、「バチがあたる」ということよりも「いのちを大切に扱いなさい」という慈悲心のメッセージが聞き手に伝わって心に受納され、生き方に反映されていたのではないでしょうか。

そして「バチが当たる」ということも因果応報の思想を基いとして、粗末に扱うということは、回りまわって自らも粗末に扱われる原因を作っているのだとしていました。

ところが、宗教団体によっては、この「バチが当たる」ということを、いのちを大切にするメッセージよりも「バチというものがいかに悲惨で恐ろしく、取り返しのつかないものであるのか」ということを詳細に語って、恐怖心を拡大するような用い方をされるようになっています。
当然、聞き手には、「バチに関する恐怖心」が植えつけられていくことになります。

もちろん「人やもののいのちを大切にする」ということをするようにもなりますが、根底には「バチに関する恐怖心」が植えつけられ、その上に「人やもののいのちを大切にする」が乗っかっている状態です。

「教えに背くとバチが当たる」
「脱退するとバチが当たる」
とことさら強調する宗教もありますが、それは何故なのでしょうか?

バチが当たるということを、宗教組織からの離反を防ぐための一つの道具として用いたり、従順で盲目的な信者に教育する目的で意図的に使われることもあります。

人間は思考や概念からではなく、原初的に肉体保存の本能から、危険なものには恐怖心を持ち、それに近寄らないようになります。

「バチが当たること」に恐怖心が起こるように教育された上で、そのバチが当たるきっかけとして「教えに背く」「脱退する」が設定されれば、それらは危険なことと認識して近寄らないようになります。

恐怖心で近寄らなくなる反対側、つまりその宗教の「教え」と「組織」こそが安全だと認識して、バチを設定される以前よりもしがみつくようになるのです。

そして、ただ「バチが当たる」と脅しているだけではなくて、そのバチが当たることの証拠、つまりはバチが当たった実例話が必要になってきます。バチがあたった実例話も聞かされるようになるでしょう。

バチが当たった既成の事実もあるとした方が真実みが出るからです。
そのような話を聞けば聞くほど自ら抜けられない状態を作っていってしまいます。

もし、信仰している宗教が、ことさらバチを強調して恐怖心を持たすようなところであるなら、警戒する必要があります。

「あなた方が不幸にならないように」と善意を装ってはいますが、「何の為にこの話を聞かされるのだろう」いう問いかけを心のどこかに持って聞くことが必要だと思います。

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